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on 2009.5.22, 00:00,
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diary.
日本人は優秀だ。
最近、そんな風に思えるようになってきた。
昔はなんだか粗ばかり見えたが、世界を旅し、実際に海外の企業と取引するようになり、日本人の善良さや仕事に対する姿勢というものに非常に共感を覚えるようになった。
GW中にベトナム・香港・マカオを5日間で回るという弾丸ツアーを敢行したのだが、ベトナムのハロン湾の船でたまたま乗り合わせたクリスというドキュメンタリーを撮る映像作家に言われた言葉がまだ印象に残っている。
「イギリスにはたくさんの車の工場があり、そこで働く人はイギリス人でマネージャーもイギリス人だった。けれど、結局のところ成功できなかった。そこに日本人が来て、彼らがマネージャーとなり工場を取り仕切るようになると、働く人はイギリス人のままなのに、大成功を収めた。それが世界各地で起こっている。その理由はなんだい?」
そのときは日本人はほかの国の人々よりも和を尊び、謙虚な人間が多いからと答えたがクリスは全く納得してくれなかった。
我ながら説得力のない意見だと思ったが、だが本当のところそういうことなのかもしれない。外国人が理解できない曖昧模糊とした日本人の価値観が世界で威力を発揮したのではないだろうか。何よりも人と同じあることに精力を注ぎ、能力が人よりもはるかに抜きん出ていても「たいしたことないですよ!」と笑い飛ばす日本人。だいたい「たいしたことないですよ!」なんて可愛らしいことをいう欧米人に会ったことはない。彼らはいかに自分が他人より秀でているかを競う文化で育っている。
その場の空気を読むということは日本では常識だが、世界ではそんなことはけっしてない。その常識は同じ日本人同士だとなあなあ体質となり、話しが一向に進まないことがあるかもしれないが、外国人を束ねる立場だと逆にそういう態度が効力を発揮するのだろう。
現在はまた成果主義が見直されているが、それも一時的なトレンドではないだろうか。長い目で見れば、年功序列で和やかな職場で働く方が、いい成果を残すのだと思う。特に仕事を人生の第一義に置く人々が少なくなって来ているので、その傾向はより一層深まるだろう。
行き過ぎた成果主義が招いたのが、サブプライムローンに端を発した世界恐慌だとすると、今後それに取って代わる価値観としてますます日本的価値観が見直されてくるのかもしれない。
下記はベトナムおまけ映像です。
(ハロン湾のジャンク船を運転する船長。おどろくべき操作術!)
(ハノイの貴金属店で寝ていた猫。一瞬、なんかの置物かと思った。世界一寝相が悪いことは間違いないでしょう)
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on 2009.5.1, 00:00,
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movie.
今年最低の映画を見た。
「GOEMON」だ。
ものすごく残念な作品だ。
役者も映像も素晴らしい。しかし、映画としては最低だ。
芸術の定義は難しいが、ただひとつ言えることはこの監督が頭の中で思い描いていることは、単なる自己満足であって芸術でもなんでもないと言うことだろう。きっと、ものすごく頭が良く、気が利く人なんだと思う。だから、こういう映画が撮れるのだが、その頭の良さが邪魔をして映画が台無しになっている。
僕の好きな映画にルイス・ブニュエル監督の「皆殺しの天使」という作品がある。上流階級のパーティーに集まった人々がなんの理由もなしにその家から出れないという顛末を描いている作品だが、「GOEMON」を見た後になぜか無性に見たくなった。
ストーリーは意味不明だし、映像はモノクロだし、「GOEMON」と比べたら何もかもが比べ物にならない。だが、より記憶に残る映画は「皆殺しの天使」だ。
人生なんて所詮個人的な体験の連続だ。
それを突き詰めて形式化したのが、芸術であると思う。
だから、取るに足りない物語しか内包していないルイス・ブニュエルの作品が傑作と謳われ、お金も時間も途方もなくかかっている「GOEMON」が駄作と言われるのだろう。
紀里谷監督は、繊細で人の気持ちが理解できるいわゆる「いい人」なんだと思う。それが伝わって来てしまうほど、この映画は駄作だ。もっと横柄に声高に自分自身を主張すればいいのにと思ってしまう。気の毒な人だ。
ルイス・ブニュエルやペドロ・アルマドバル、それにゴダール、北野武なんかは人に何かを伝えたいなんて殊勝な気持ちを抱いたことなんてないだろう。人生には何かしら高尚な理由があって、自分自身が存在しているとも思っていない。ただ単にそこにあるものを描き、自分自身が真実だと思っていることを映像化しただけだ。他人の共感や同情なんて度外視している。それが良い方に働く場合もあるし、悪い方に働く場合もある。ゴダールが悪い方の典型だし、北野武がいい方の典型だ。
万人に理解されることなんて、どうでもいいことなのだ、芸術家にとっては。最も重要なことは自分がありのままに感じ、真実だと思える感情をより効果的な方法で伝えることだ。
「GOEMON」は成功した一人の引きこもりが作った最低な映画だ。
引きこもりが最低なことだと思わないが、その価値観を強制されるのは勘弁願いたい。
他人から共感を得たいのであれば、もっと別な方法があると思う。
この映画の根底にあるのは、「人から認められたい」という一人の引きこもりの素朴な願いしかない。
そんなものを華美な映像や豪華な役者で脚色する必要があるのだろうか?
頭で分かっていても、本当に心から理解し、それが自然と現れるほど自分自身が成熟していないと、映像として心揺さぶるものができなのだと痛感した映画だった。
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on 2009.3.17, 00:00,
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diary.
今日は2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユネスさんの講演を聴きに行った。とても印象的だったので、ここにその内容を書いてみようと思う。(講演は通訳なしで行われ、録音したわけでもなく、自分のメモ書きから書き起こした要約です)
2008年は様々な危機が訪れた年でした。
最初に食料危機、そして金融危機とこの世界の根本を揺るがすような危機が相次いで起きました。
しかし、ここで強調したいのは危機は人々に機会をも与えることです。このことに関しては本来ならば新聞の一面、あるいはテレビ番組の1時間を毎日割いてもいいほどです。
では、その機会をどのように捉えればいいのでしょうか?
この危機は少数の人々によって引き起こされました。特にある特定の一カ国のごく少数の人々によって引き起こされたのです。何億ドル、何百億ドルのお金が失われ、世界の半分の人たちが犠牲になりました。
ここで言う世界の半分とは、下から数えたほうの半分です。彼らは世界の10%の人々による政策によって犠牲になったのです。そして、この危機のあとには、新しいシステム、作り直されデザインされ直されたシステムを打ち立てる必要があります。
この新しいシステムは、ふわふわ浮ついたものがベースになるのではなく、強固でしっかりと根っこに根ざしたシステムでなくてはいけません。
人間はお金作り(Money Making Machine)というひとつの機能をもった機械ではなく、複数の機能を持ったマルチな機械なのです。
自分たちの利益を追求や利己主義に走ることなく、新しいビジネススタイル、ソーシャルビジネスを目指す必要があります。
ソーシャルビジネスとは、利益を追求することが第一義ではなく、問題を解決することを第一義に置いている企業のことです。そういった企業には競合他社という概念はありません。同じ問題を解決することに取り組むのだから、競争するより協力していいパートーナーシップを築けばいいのです。
特にテクノロジーを活用すれば、多くの問題はもっと早く、簡単に解決することが可能です。
『ここで彼が創設したグラミン銀行の事業がいくつか紹介される。例えば、グラミン銀行はインテルと提携して、グラミン・インテルとして様々な事業を展開していることや、アディダスとも契約を締結する予定であるという。もっと具体的な例は下記に掲載されている。
http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090311/1236774961
(特にここに掲載されているヨーグルトのことは詳しく説明していた)
重要なことは、何も利益を度外視するのではなく、ちょっとした儲けを目指すことです。我々はなにもホームレスの人々にお金をあげているわけではなく、あくまでお金を貸して、その利子と預かっているお金でさらなる投資を行い、利益を出しているのです。
また貧困は、貧乏な人々によって作られるのではありません。貧しいことは彼らの責任ではないのです。貧困は現在のなんらかの保証がなければ融資をしない銀行のシステムや組織が生み出すのです。ただグラミン銀行は彼らにお金を貸しますが、そのお金を投資した事業に責任は持ちません。なぜならそれは彼らの責任だからです。
(ちなみにグラミン銀行は無保証人、無担保だがその返済率は98%を超えている。5人一組による互助システムなどを取り入れ、実際にお金が借りられるまでいくつかステップがあるので、借りる人は決して無責任にお金を借りることはできないし、どうしても事業に必要な小額なお金しか借りない)
ソーシャルビジネスを実現するために、私たちは国や大企業を回って説得する必要を感じてはいません。新しいシステムは、個人の責任をベースにしたシステムなのです。
あなた方がスーパーに行って食品を手に取るとき、その食品の安全性が黄信号だったらどう思いますか?赤信号の食品だったらどう思いますか?私は安全な緑信号の食品を次の世代の人々に残したいと思っています。
私たちの基本的な理念は、次世代の人々により安全、より良いものを渡していくことです。
貧困を生み出す根本的な問題は、構造の問題です。
ですので、その構造を変える必要があるのです。
しかし、勘違いしないでください。
私たちが世界を変えるのではなく、あなた方が世界を変えるのです。
私たちが世界を変えてくれるのではと、期待するのは止めてください。
現在ある会社のそのほとんどが、利益を追求する会社です。
まだこれから社会に出る若い人々に言いたいのは、そういった会社だけではなく、ソーシャルビジネスの理念を持った会社も選択できるような社会を実現して欲しいということです。
ソーシャルビジネスは誰でも簡単に始めることができます。
そして、そういった人々が世界を変えていくのです。
ご清聴ありがとうございました。
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on 2009.3.15, 00:00,
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diary.
気持ちのいい日曜日だ。
いつもより少し長く感じられた冬がようやく終わりを迎え、夏の香りがすぐそこまで漂ってきている。こんな日に結婚式なんて、最高だ。
友人に写真撮影を依頼されたので、久しぶりに結婚式の撮影をしてきた。最後に結婚式を撮ったのはいつだっただろう?もうずいぶんと前のような気がする。撮影と言っても今回は披露宴のみだったので、それほどの機材は必要ではない。今後も周りでは結婚しそうな人はいても結婚式まで挙げそうな友人はいないので、撮影する機会ももうそうそうないだろう。
そういえば僕の友人で、わずか二ヶ月のあいだで20歳近く年下のウクライナ人の彼女を作り、すぐに籍を入れ、挙げ句の果てに子供までできた人はいるが、結婚式を挙げるとは聞いていない。(挙げるとしたらウクライナで挙げるのだろうか?ちょっと行ってみたい気はする)
今回の会場となった目黒の八芳園は、素晴らしい雰囲気のところだった。さすがに白金に位置するだけあって格調の高さが際立っている。
結婚はしていても結婚式を挙げていないので、なんとなく結婚式というものに対して複雑な感情を抱いているが、こんな気持ちのいい日に式を挙げられたら良いなと素直に思う。
披露宴における一連のシステマチックな流れには違和感を覚えるし、費用対効果を考えるとどうも釈然としないが、春の陽気と最高の天気が確約されているのならば、それだけの価値があるだろう。
披露宴と言えば思い出されるのが、うちの姉の披露宴で母方の叔父がぽつりと言った次の台詞だ。
「エンターテイメント性が足りないね」
NYに10年以上も住んでいた人だけあって、なかなか手厳しい。エンターテイメントとしてのレベルは、彼の感覚では劇団四季とブロードウェイのミュージカルぐらいの差がそこにはあるのだろう。
しかし、そもそもブロードウェイのようなエンターテイメント性がある結婚式なんて、存在するのだろうか?たいていの場合、劇団四季的な予定調和の世界に終始し、滞りなく済ませるもののような気もする。(特に花嫁が両親への感謝の気持ちを読み上げる手紙と、劇団四季と観客のあいだに存在する割り切り感は共通しているように思える)
ただ今日の陽気はそんなことを吹き飛ばすほどで、本当に気持ちのいい披露宴だった。天気さえ良ければ人間は幸福になれると言ったニーチェは正しい。
そして、白金で一番気に入ったのは、その帰りに寄った八芳園の目の前にあるブックオフだ。そのあまりの品揃えの良さに3時間も過ごしてしまった。ブックオフのメインの商品と言えば、漫画なのだが、さすがにそこは白金だけあって、洋書や文学作品、それに洋楽のCDなどを豊富に揃えており、今まで行ったブックオフの概念を吹き飛ばしてくれた。(通常、ブックオフでの本の購入方法としては100円で売り飛ばされているベストセラーを何冊か購入し、人気作家の新刊を何冊か購入するといった感じだろう)
白金に住んだら、毎日このブックオフに通い、併設されているカフェでコーヒーを飲みながら日がな1日過ごしてしまうだろう。そんな生活、まだまだできそうにないけど。
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on 2009.3.13, 00:00,
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diary.
朝からずっと家に籠もっていたので、近所のファミレスまで気分転換をしに行ってみた。
喫煙と禁煙を選べたので、禁煙席へと案内してもらった。最初はなにかざわざわと騒がしいなとしか思わなかったが、あたりを見渡してみるとすべて女性だった。それもものの見事に「おばさん」というカテゴリーに属する女性ばかり。少し興味を覚えて彼らの会話を盗み聞いてみた。
「幼稚園」「近所の誰々さん」「ゆう太くん」といくキーワードが聞こえてくる。どれも大まかに言えば、愚痴あるいは他愛のない話だ。でも、それを本当に楽しそうに話している。一人一人の音量はそれほどでもないのだが、全員がそんな感じで話しているので、こんなに騒がしくなってしまうのだろう。
本当にここは「おばさん」だけの聖地なのだろうか?
それを確かめるために、ドリンクバーへと赴いたついでに禁煙席全体を見回してみた。すべての席は驚くことに女性で占められていた。なかには一人、年を取り過ぎていて性別の区別がつかなくなった老人が一人いたが、それは勘定には入れていない。
ドリンクバーを隔ててレストランの反対側にある喫煙席には、対極の性、すなわち「おじさん」が陣取っていた。そこには北緯38度線のように厳然とした線引きがされているかのようだ。楽しそうな「おばさん」たちとは違い、「おじさん」たちはすっかり疲れ切っているように見える。彼らの主戦場はここではなく、「コスト」「生産性」「効率」という殺伐としたキーワードが飛び交う世界なのだから、致し方ないのかもしれない。
未だどちらのカテゴリーにも所属しない僕は、読みかけの「潜水服は蝶の夢を見る」を広げ、iPodを耳にはめて別世界へと飛ぼうとする。でもやはりどうしても、「おばさん」世界の陣地に居座ることへの居心地の悪さからか、読書に集中することができない。
彼女たちにとって昼間のファミレスは、朝の洗濯に掃除、そして夕方から待ち受ける夜ご飯の準備のあいだの至福のひとときなのだ。ともすれば退屈という魔の手が彼らを脅かすので、彼女たちは彼女たちの世界を死守するために毎日昼間のファミレスで決起集会を開いているのかもしれない。お互いがお互いの生活を確認し、誰もが自分よりちょっと不幸か、ちょっと幸せであることを確かめているのだろう。
羨ましいとは思わないし、それはそれで大変だろうなと思う。
僕はまだ「効率」と「生産性」の狭間でもだえ苦しんでいる方が性に合っている。決まりきった毎日を送るよりは、冒険をしていたい。生活に苦しめられるよりは、生活を自分に従属させ、それを楽しみたい。
最近つくづく思うのだが、他人から評価されるべきは結果のみであって、自分にとって本当に価値があることはその過程であるということだ。
その過程を心ゆくまで楽しんでみたい。行き当たりばったりで自分でも今後どうなるか想像がつかないが、運が良ければ結果を伴うだろう。そして、その結果は自分の努力の結果ではなく、たまたまうまくいってしまっただけであり、必然ではない。そういう自覚が大切なのだ。
僕が彼女たちの楽園をあとにしようと伝票を持って立ち上がって周りのテーブルを見ると、僕が席についてからずっといた人たちばかりで、誰も席を立っていないことに気がついた。そこで初めて、彼女たちを羨ましく思った。
彼女たちの楽園はまだまだ始まったばかりだ。
狂騒の宴はまだまだ続き、それを尻目に僕はまた殺伐した世界へと戻って行く。きっと彼女たちは内心、今晩のおかずのことで頭を悩ましているのかもしれないが、そんなことはさておき今を楽しんでいる。何よりもそれが一番重要なことなのだから。