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on 2005.10.24, 00:00,
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diary.
このHPを立ち上げて、そろそろ一年が経とうとしている。
日記を読み返して見ると、更新の頻度があまりに不定期なのに愕然とする。
最初の意気込みはどこへやら。
仕方がないので、今後はせめて週に一度は更新しようと思う。
毎週、月曜日に更新することにしよう。
一週間にいい区切りがつき、時間の歩みを遅らせることができるかもしれない。
最近、つくづく時間は限定されていると思う。
たとえ、それが概念に過ぎないことだとしても、その使い方次第で人生の行方は決まってしまう。
残念なのは、誰もその行く先を知らないことだ。
誰にも何も教えられず、僕たちは時を過ごす。
それがまた醍醐味でもある。
人生には意味があると思う。
でも、それは常に複数形であるべきだ。
信念はことを成就させるには必要だが、信仰にまでなってしまうと目的を見失うことになる。信仰は人に考えることを放棄させてしまう。
首尾一貫した人は何事にも動じない。
きっとそういう人は、自分の信念を使い捨てできるからだ。
いくつかの物事に対して、信じるに足ると思ったことに邁進し、間違っていると分かったときに方向転換する。
そういう人間に憧れる。
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on 2005.10.12, 00:00,
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diary.
「同じ河に二度入ることはできない」 ヘラクレイトス
時間はひとつの概念だ。
実際に存在はしない。
とはいっても人間の生活の指針になる最大の要素が時間だ。
人々は鏡に映るしわの数や、肌の質感やなんかで自分の過ぎ去った時間を実感する。
日々の生活のなかで、今この瞬間はもう二度と存在しないのだと実感することはとても難しい。
明日と今日、それに昨日の区別がつく人が何人いるだろうか?
漠然と過ごしてしまえば、一週間なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。
最近、僕は一人になって考えるようにしている。
そうすると、時間の存在を感じることができるから。
誰かと一緒にいると、時間は闇雲なスピードで過ぎていく。
一時停止させるには、一人になるのが一番だ。
思春期の頃、よく僕は真夜中に散歩した。
そうすることによって、自分の存在を確かめたかったのだろう。
誰もいないからこそ、自分の存在が感じられた。
最近、また真夜中の散歩をするようになった。
以前とは全く違った理由で。
なんとか危機感を持って生きていたい。
そんな願いを込めて、僕はふらふらと真夜中の散歩に出かける。
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on 2005.10.11, 00:00,
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diary.
子供の頃、明日が来るのが待ち遠しかった。
時が過ぎるのが、遅過ぎて僕はよくいらいらしていた。
早く大人になりたかったし、すべてを経験したかった。
最近、時間が過ぎる速さに愕然とする。
月曜日が来て、あっという間に週末になり、また仕事の毎日だ。
何もかもが未経験の子供の頃は、予測不可能のことの連続だったから、体感的に時間が過ぎ去るのが遅く感じられたのだろう。
今は毎日、明日のことを考えている。
失敗しないように、プランを練り、無事に時が過ぎ去るのを見守っている。
別にそれが悲しいことだと思わないし、当然のことだと思っている。
ただ、時々懐かしく感じられるだけだ。
人間は僕たちが思っているより以上に順応性が高い生き物だ。
危険がいつのまにか危険ではなくなっている。
それでも、そういった子供の頃ワクワクしたことを忘れられない人間は、どうにかこうにか楽しもうとするものだ。
人は人生をゲームだとよく言う。
僕も心底そうだと思う。
より楽しくゲームをした人間が本当の勝者だ。
物事に対して深刻ぶる人間を人々は重用するが、そういった人間はなんの創造性も発揮していない。
与えられたゲームの題材は、各人の人生であり、全くもって非常にフェアだ。
それを楽しみながらいかに自分が目指すゴールへと向かっていくかが、鍵となる。
僕らが抱いている80%ぐらいの悩みは取るに足りない、どうでもいいような悩みだ。
でも、それはそれで悩む価値のある正当な悩みでもある。
そこで創造性を駆使して、その悩みをなんとか楽しみの方向へと変えながら、生きていくのだ。
大人になった僕たちは、そういった遊びで日々を楽しむのだ。
あくまでゲームと自覚した上で。
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on 2005.8.31, 00:00,
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people.
昨日はシンガポール人のアーネストに会った。
パリで別れて以来だから、二年以上も会っていない。
彼とはアムステルダムで開かれたドキュメンタリーカメラマンのワークショップで会ったが、それほど頻繁にやり取りをしていたわけではない。
そんな感じなので、彼との思い出はパリで終わっている。
特にパリでは彼にとてもお世話になった。
とある理由で、泊めてくれていた友人の都合が悪くなり、彼の友人宅でお世話になったからだ。彼とはパリを発つ日が一緒だったので、最後の晩を一緒に過ごした。
充実した旅だったが、お互い様々なことを経験した。
イタリア料理屋でワイン片手に遅くまで飲んだ。
なんだか遠い昔のようだが、それほど前のことではない。
凍えるような真冬のパリだった。
それなのに、僕はのんきに「ロード・オブ・ザ・リング3」を見に行き、終わる時間を調べないで、待ち合わせ場所で彼をずいぶんと待たせてしまった。
僕達のあいだにあるのはお互いカメラマンであるということと、いくばくかの共有した時間だけだった。
それが昨日また繋がった。
一点でしかなかった記憶が再び繋がるのは不思議な感覚だ。
僕達の思い出はパリに凝縮されていた。
なんとなしに彼とはまたパリで再会するのでは、思っていた。
それが二人にとって自然な感じがしたからだ。
タイで同じワークショップで知り合ったケオと再会したときは、それほどの違和感はなかったが、アーネストと東京で会うのは変な感じがした。
ケオが僕にそうしてくれたように、僕はアーネストにご馳走し、きっとアーネストはワークショップの誰かが彼を訪ねてきたら同じようにご馳走するだろう。
そんな形で何年かに一度は一緒に時を過ごした人たちが、地球のどこかで再会を果たしていると思うと、素敵な気分になる。
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on 2005.7.27, 00:00,
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diary.
人生の第二打は何歳ぐらいのときだろう?
1打目は20代だとすると、やはり30代前半くらいだろうか?
村上龍は第二打でその人の人生が決まると書いている。
Par4でバーディーかそれ以上を狙うならば、2打目では確実にグリーンに
届かないといけない。しかも、よりカップに近いところを狙わないとバーディーが取れない。
パーを狙うならば、第二打は刻んでいけばいい。
グリーンが見えないのならば、見えるところまで刻むのだ。
誰でも1打目ではできるかぎり遠いところへ飛ばす。
そうして、ふかすこともあるしOBに入ることもあるだろう。
それは結果論であって、遠くへ飛ばそうとした事実には変わりない。
僕の1打目はどうだったのだろう?
手ごたえとしては、思ったほどは飛ばなかったなというとこだろうか。
狙いも振りも悪くなかったが、少々力み過ぎた・・・まあ、そんなとこだ。
僕は今第二打目のテイクバックに入っている。
バーディー狙いはもちろんだ。
今更、刻むつもりはない。
問題はグリーンに届くかどうかだ。
まだまだ距離は遠い。
精一杯振ったとしても、やっと届くかどうかの距離だ。
しかも、20代の頃のようなエネルギーはもうない。
その代わり、狙いはもっと明確にはなった。
1打目で失敗しても、2打目で修正は効く。
だが今度はそうはいかない。
息を整え、神経を集中させ、僕は振り抜く。
今度こそ、自分の狙ったところへ届けと祈りを込めて。