Posted
on 2007.5.1, 00:00,
by editor,
under
diary.
時々こう思う。「旅とはなにかを得るためにするのではなく、失うためにするもの」のではと。
すべてを捨てて、どこか遠い国へ行けたらと思う。
現実に嫌悪しているわけではなく、誰一人知らない国へ行って自分自身がどのような行動を取るのか、見てみたいだけだ。
そこで旅に出る。
なるべく異国へ。
誰も知らない、言葉も通じない場所にひとりへ行って、こう思うのだ。
「さて、おまえはこれからどうする?泊まる場所も決まっていないし、今日どうするかさえ決めていない。ましてや言葉も通じない国だ。そこでどうやって目的を探し当て、なんらか有意義な時間を過ごすのだ?」
マゾかなと思ったりもする。
知らないことが楽しい。
まっさらな状態が潔い良いのだ。
人生にはゴールなんて存在しない。
そして、無情にもゴールが見えないからといって、それをやり直すことはできないのだ。
そこで、せめてもの必死の行動として旅に出て、一から出直してみるのかもしれない。
言葉や常識を取り払ったなかで、自分がどこまで通用するのか確認するのはそれはそれで楽しいものだ。
Posted
on 2007.4.24, 00:00,
by editor,
under
diary.
せつなさとは何だろう?
今日、音楽家の友人と話しているときに話題に上った。
彼女はかなり高い頻度でせつなさを感じるという。
最近はせつなさより、もっと生々しい人間の感情を感じることが多くなったような気がする。きっとどっぷりと浸かっているのだろう、俗世間という現実に。
自分が本当に撮りたい写真を撮っているときは、せつなさで胸が締め付けられることがある。
この一瞬を永遠に繋ぎ止めたいと切に願うとき、あるいはそこには自分ひとりしかいなくて、誰にも今この瞬間は本当には共有できないと悟るとき、せめての償いで写真を撮る。
そんなときはせつなさでいっぱいだ。
日常生活でもっとせつなさを感じるときはあるのだろう。
ただ今自分の生きているスピードが早すぎるのだ。
せつなさについて、また粘菌コンピューターについてなど今日は色々なことを語った。
ちょっと歩みを止めてみようと思う。
何も前へ前へと進むのが、前進しているとは限らない。
粘菌コンピューターよろしく、様々な可能性や方向性があるのだ。
しかし、彼女いわく粘菌コンピューターの思考方法は結局人間に近いものだという。ということは、初めからなにもそんなもの開発する必要がなく、人間そのもので十分ではないかとのことだった。
せつない話だ。
Posted
on 2007.4.1, 00:00,
by editor,
under
diary.
週末、祖母の誕生日会が親戚一同で祝われた。
祖母は今年で93歳になる。
ちなみに彼女は6年間ほど自分はずっと84歳だと思い込み、同じマンションの人にもそう言いふらしていたので、マンション内で90歳になった人達を祝う会で自らの名前を呼ばれたときは、周りの人間もびっくりしたが、本人が一番びっくりしたという逸話の持ち主だ。
悲しいことに人間は、一年ごとに一歳年を取らねばならない。
90年も生きたら、6年に一歳くらい年を取るぐらいでいいのかもしれないが、現実はそう甘くはない。
若いアイドルが時々年齢詐称で記事になるが、どうやら年を取り過ぎると同じ過ちを犯してしまうらしい。
そんなこんなで滞りなく誕生日会も終わったが、人間90歳を超えると一年ごとに確実に老いる。
あれほど背筋がぴんとしていた祖母も今では、腰が曲がって歩くのもままならない。
その一方で、姉の子供は生まれて9ヶ月しか経っていないが、会うたびに変化があり、着実に一歩一歩人間へと進化を遂げている。
そしてまた、叔父夫婦の子供、僕の従兄弟にあたる子は僕が高校の頃ベビシッターをしていたのに、来年高校生になるという。
一年に一回しか会わないからこそ、そんな変化にある種の恐怖を覚える。
ときは正確に刻んでいくのだ。
僕達が気付かない間にときはビートを刻み、残酷にその刻印を押していく。
93年も生きた人間にとって、僕らはどう見えるのだろう?
ただ思うのは、本人はどうでもいいのかもしれないが、自分が思うのは90年以上生きても、孫に誕生日を祝ってもらえたらどんなに幸せだろうかということだ。
Posted
on 2007.3.3, 00:00,
by editor,
under
diary.
朝起きると、洗剤がなかった。
土曜の朝は、洗濯をしながら掃除をし、遅い朝食を取るのが習慣だ。
当たり前のことだが洗剤がないと、洗濯ができない。
「洗濯をしながら」というのが重要なのだ。
洗濯をしながらほかのやるべきことをやると非常に気分がいい。
それは、きっと「洗濯をしながら」やる作業だからだろう。
朝起きると、洗剤がないというようなことから生活の綻びが始まるのかもしれない。
洗剤がないという事実から目を背けるために、テーブルに置いてあった文庫本を取り上げ、読みふける。まだ読み始めたばかりだから、読み終える頃には日も暮れているだろう。
10分が限界だった。
やはりどうにもこうにも洗剤がない。
重い腰を上げて、買いに出かけることにした。
ついでにクリーニング屋に行こうと思い立ち、シャツを二枚ほど手に持つ。
そして、テレビの横に置いてあるTSUTAYAから借りたレンタルDVDが目に入る。
セールだったので100円で借りられた。
だから5本ほどまとめて借りた。明日が返す期日だ。なのに、まだ一本しか見ていない。
部屋を出ようとして、鍵を探す。
どこにも見当たらない。
そこで昨日、鍵をどこかに置き忘れたのを思い出す。
夜中の3時に帰ってきたのだが、たまたま玄関の鍵が開いていたので助かった。
いたるところに綻びはあるものだ。
クリーニング屋に向かいながら、先週のことを思い出す。
先週は熱を出し、38度の熱を抱えながら、同じようにクリーニング屋に向かっていた。
なぜ38度の頭でクリーニング屋に行ったのだろう?
そもそもの発端はコンタクトレンズの溶液が切れていたので、それを買いにマツモトキヨシに行ったのだった。
そこで10分ものあいだ、コンタクトレンズの溶液を探し回った。38度の頭ではろくなことにならない。どうして店員に聞かなかったのといえば、高熱のあまり喉がからからで、声を出す自信なかったからだ。だから、10分以上も店内を歩き回るはめに陥った。
強風の中、クリーニング屋に行き、そしてコンタクレンズの溶液を買って帰ったら、洗面台の下にはコンタクトレンズの溶液の予備があったのを発見した。
だから38度の頭ではろくなことにならないのだ。
クリーニング屋に寄り、スーパーを目指す。
そこで洗剤を探す。洗剤だけを買いに来たのに、買い物かごには、すでにみたらし団子やオレンジジュースやら特に必要ではないものがたくさん入っている。
洗剤がなかなか見つからない。
本当に必要なものは、いつも見つかりにくいものなのだ。
だから、代わりにみたらし団子やオレンジジュースなどで気分を紛らわせようとする。
結局、2000円ぐらいの買い物をして、店を出た。
高い洗剤になったものだ。
ようやく帰宅し、いつもの儀式に厳かに取り掛かる。
まずは洗濯機を回し、掃除機をかけ、食器を洗う。
洗濯をしながらする作業は格段に効率性を増す。
それは洗濯機を終える頃には、すべての作業を終えていなければという脅迫観念によるものかもしれない。
人間は、洗濯をしながらあらゆる作業を行えるものだ。
その気になれば、子供だって作れるかもしれない。
遅い朝食はいつのまにか昼食に変わってしまった。
生活にはリズムが重要だ。
まったく妙な一日になりそうだ。
今日の綻びについて考えはするが、休日なので改善する気は起きない。
明日は朝起きると、洗剤はある。
それだけでも、よしとしよう。
Posted
on 2007.2.12, 00:00,
by editor,
under
diary.
昔自分が撮った何気ないスナップ写真を見ていると、どうしようもなく淋しくなるときがある。そこにあった情熱が今の自分にはないからだ。
正確に言うと、そのときある種の熱を持って撮っていたのに、その熱のようなものが欠落している。写真に対してなのか、あるいはもっと別なものに対してかは分からない。
新しいことが起きなくなった。
年を取るとともに物事に対して、リアクションするのがうまくなってくる。
またリアクションするべき事柄も多くなってくる。
しかし、そうなってくると今度は自分で何か新しくやろうという意欲がなくなってくる。
リアクションするだけで気持ちも心も手一杯だからだ。
どうありたいのか真剣に考えないと、これから先は通用しなくなってしまうだろう。
問題に対処することはそれほど難しくないが、自分で課題を見つけてそれに対して取り組むのは多大の努力と決意が必要だ。
新しいことはけっして起きない。
自分で起こさないといけない。
日常生活は麻薬みたいなものだ。
最初は誰もが夢や希望を持って社会に飛び出す。
でも、それだけではどうにもならない。
そして、いつしか現実ばかりに対処するようになり、自分自身の大切な何かを置き忘れてしまう。
本来は、自分自身にしかできないことは何かと真剣に考えて、死ぬまでになんらかの回答を得ることが人の道なのだろう。
そんな悠長なことを考えている場合ではないのかもしれない。
だが、過去の写真を見ると痛烈に痛みを感じる。
そこにあった何かを取り戻したいと思う。
いや、取り戻す必要はない。
また新たに生み出す必要があるだけだ。