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on 2007.8.14, 00:00,
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music.
彼のトランペットは物悲しい音色を奏でる。
あれは忘れもしない19歳のバレンタインデーだった。
渋谷のレコファンで「マイ・ファニー・バレンタイン」というアルバムを見つけて衝動買いした。
アルバムのタイトルとなっている最初の曲で完全に参ってしまった。
こんなすごい歌手が世の中に存在しているとはにわかに信じられなかった。
そして、あとから彼は本当はトランペッターであることを知り、二度驚いた。
それから彼のアルバムを買い漁り、「レッツ・ゲット・ロスト」という当時世界一のファッションフォトグラファーであったブルース・ウェーバーが撮ったドキュメンタリーのビデオを購入した。
たぶん「一番好きなドキュメンタリー映画は?」と聞かれたら迷わず「レッツ・ゲット・ロスト」を挙げると思う。この映画ほどチェット・ベッカーを的確に表現したものは存在しない。
今夜、なぜか彼のトランペットを聞いた。
歌もいいけど、彼のトランペットはまるでボーカルのように表現豊かで、心に響いてくる。
その才能は畏怖すべきほどすごい。
技術だけなら彼のほかにも星の数ほど優れたトランペッターはいると思う。
しかし、こんなに心に直接語りかけてくる演奏者はほかに知らない。
(たとえば、ジョン・コルトレーンのテナー・サックスの技術には脱帽するが、彼の音楽をそれほど知ろうとは思わない。きっと完璧すぎて、興味の対象にならないのだと思う)
「レッツ・ゲット・ロスト」のなかで、チェット・ベッカーがブルース・ウェーバーに語りかける場面がある。年を取り、また人気が再熱し注目を浴び始めたことに関してチャットが言ったセリフがあるのだが、その言葉よりもその彼の表情が忘れられない。
本当に大事なことは言葉で伝えられないものだが、あの瞬間をカメラに収めたブルース・ウェーバーはあれだけで歴史に残る偉業を成し遂げたと思う。
そんな瞬間をカメラに収めたいものだ。
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on 2007.7.11, 00:00,
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diary.
ふと気が付くと、ロンドンの場末のクラブで酩酊しながら新年を迎えてから、もう半年が過ぎた。当たり前のことだが、半年とは一年の半分であるわけだ。
サッカーでいうところの前半がもうすでに終わってしまっているわけである。
またサッカーとは違い悠長にハーフタイムなどは取れず、心の準備もできないまま残りの半年に突入していく。
周りの人間も時間が過ぎるのが早いと嘆いているので、全世界的規模で時間が進むのが早くなってしまったのでは思ってしまうが、みなさんそれなりに年相応になってきたので、揃って時間が過ぎるのが早く感じているだけだろう。
半年を総括してみても、特に何も思い浮かばないのはなぜだろう?
せいぜい先週のことぐらいまでは思い出せるが、その先になると記憶がおぼろげだ。
漠然としたかたまりのような記憶が残っている。
昨年はモロッコに行って写真展をしてもっとアクティブな感じだったが、今年はまだ全体として形がぼんやりとしている。
行動することが善とは限らないし、努力はたいていの場合報われないことのほうが多い。
ただ行動しなければ前には進まないし、努力しないと取り残されるだけだ。
朝、テレビを付けると親を殺した少年のニュースや学校の便所で出産した女子高生、あるいは羽賀研二なんぞが気分をたっぷり滅入らしてくれる。見なきゃいいのにと思うが、つい怖いもの見たさで見入ってしまう。そんな小さなことが重なって、時間というものが早く早くと急かすように流れていく。見る必要のないものを見て、考える必要のないことを考え、自分が気分を害しても仕方のないようなことに振り回されている。
本当にサッカーのようにハーフタイムがあったら、どんなにいいだろう。
一年のうち、一週間ほど誰もがやるべきことを放り出し、自分の半年間を振り返り、残り半年の身の振り方を考えるのだ。
思いもかけない名案が浮かぶかもしれない。
少なくても今いる自分よりは自覚を深めて、時を過ごせるだろう。
そんなことを考えながら、つい梅宮アンナに思いを馳せる。
どうして、辰夫パパがいながら、あんなことになってしまったのだろうかと・・・・
やはり僕にも、彼らにもハーフタイムは必要だ。
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on 2007.6.17, 00:00,
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people.
19、20歳のころは狂っていた。
なにも比喩的な意味ではなく、事実かなり頭がおかしくなっていた時期だ。
証拠を上げたらきりがないが、そのひとつにイギリス留学中は一切日本語を話すことを自分自身に禁じたことだ。
なぜそんなことを自分に課したかは今となっては定かではないが、きっと日本語を話すひまがあったら英語を話すべきだと考えたからだろう。
僕がスコットランドの首都エディンバラに留学したのは、なにも忙しい人生のちょっとした息抜きというわけではなく、海外に移住しそこに生活の拠点を移すことだった。だから、英語は第二言語としてではなく、ネイティブ並みに話せるようにならないと意味がないと思っていたので、日本語を話すことを自分に禁じたのだと思う。
それを徹底すると、いいこともある。
まずは周囲の日本人からは変人扱いされ、相手にされなくなることだ。
そうなると、やはり英語を話すしかなくなるのでモチベーションも上がった。
しかし、そんなかでも果敢にも頭のおかしい20歳の日本人に興味を持つ同胞もあった。そのなかの一人がタクだった。
彼は31歳の元デザイナーで、海外留学はそのときが初めてだった。
東京で照明のデザインしていたが、海外に憧れがあったので仕事を辞めてエディンバラに来たという。僕とは十歳以上も離れていたので、彼と接するのは気が楽だった。その理由のひとつが、自分が彼の年齢に達するまであと十年以上あるという紛れもない事実だ。今は自分が彼と同じくらいの年になり、彼がなぜ東京での照明デザイナーの地位を捨てて、エディンバラに留学した訳が分かる気がする。
きっと飽きたのだろう。
そのときの環境に、そして何よりも自分自身に飽きてしまったのだと思う。
タクとは一年以上、一緒にいたが日本語を話すことは一度もなかった。
何度なく二人きりになるシチュエーションがあったが、それでも英語で会話をした。その年の年末に二人で一緒にスペインに旅行をしたときも、ひたすら英語で話した。今から考えれば、まるっきり阿呆だと思う。タクもよく付き合ってくれた。それが年上の余裕というやつかもしれない。僕らが十歳以上離れていたのが功を奏したのかもしれない。今なら笑い話になるくらい徹底していた。あれほど一緒にいて、しかもろくに英語が話せない頃によく英語で通したものだ。
今頃、タクはどこでなにをしているのだろう?
僕が32歳なので、彼は43歳になったくらいか。もうりっぱな大人だ。エディンバラのFBIいうUKロックしか流れないクラブで一緒に踊り狂った夜を彼も時々思い出しているのだろうか?当時きっと彼は僕よりも深刻な問題を抱えていたはずで、僕はそれに対してまったく思いやる余裕がなかった。
自分のことしか考えられない20歳の甘えたガキだったわけだ。彼にも甘えていたのだろう。
その当時、一番仲良かったサイモンは「タクは31歳にならないと海外に来る気になれなかったが、きみは19歳ですでに準備が出来ていた。それはすごいことだ」と言ったが、今から思うと少し的外れな気がする。
タクはきっとすでに一度人生を終えていたのだろう。
そして、もう一度自分の人生を生き直すために海外移住という選択をしたのだ。とてもすごいことだ。今の自分にそれができるかというと考えざるを得ない。
彼の生き方が羨ましいとは思わない。
だが、31歳の元デザイナーがなぜエディンバラに来て、20歳の拙い英語しか話さない日本人に興味を持ったか知りたいとは思う。それが彼の闇かもしれないし、自分にとってはなんらかのヒントになるのかもしれない。
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on 2007.5.20, 00:00,
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books.
ロング・グッドバイを本屋で三度手に取り、四度目でようやく買った。
理由はいくつかある。
まずは、うんざりするほど分厚本だからだ。
そして、チャプター1は読みきったが、その先がどうなるのかイマイチ見当がつかず、買うのをためらった。
あの分厚さを読みきるのは、ある程度の勇気が必要だ。
そのためには四度本屋に行く必要あったのだろう。
読み始めたら何のことはない。
買うのをためらった自分が恥ずかしいくらいだ。
すっかり虜になってしまった。
読み終えるのがもったいないくらいの本だ。
今はちょうど半分くらい読み終えたところだが、きっと明日にはすべてを読み終えているだろう。
本を読む作業というのは、厳かな儀式だ。
それなりの精神状態とそれなりの雰囲気と、いくばくの余暇が必要だ。
最近、本を読まなくなったのは、きっとそういう雰囲気に自分がいなかったせいだろう。
今日は、一日読書に費やした。
そんな日曜日もいいものだ。
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on 2007.5.15, 00:00,
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movie.
人は気付かないあいだに他人を傷つけてしまう生き物だという。
果たして、本当にそうだろうか?
誰もが自分にされたら嫌なことぐらいは自覚している。
けれども、それを他人に対しては平気でしてしまう。
すべては想像力の問題なのかもしれない。
人は他人がなにをどう思っているのか、想像することによってしかコミュニケーションを成立させられない。そして、物事の結果を想像して行動する人間は稀なのだ。
手に入れたばかりの銃を試したくて、通りがかりのバスに向かって発砲するとき、もし自分がそのバスに乗っていたらなんてことは想像しない。
不法就労者が安易に国境を越えると、たいていろくな結果にならないが、そこまで考えは及ばない。誰もが自分だけは大丈夫だとたかを括っている。
人は面倒なことを想像するのを拒絶し、立場の違いや性別の違い、また人種の違いで他人に対する態度を決定的に変える。
それがますますコミュケーションを複雑にしている。
本来、コミュケーションにおいて人間は平等だ。
ほとんどの場合想像力さえ働かせれば、言葉が通じなくてもお互いのことは分かる。 それにもかかわらず、人はコミュケーションを怠り、自分が正しいと思い込んだことに邁進してしまう。人間はなんて悲しい生き物なんだろう。
正しい人生はこれだと振りかざす映画は気に入らないが、なにもかも噛み合わないのも気に入らない。悲しさいっぱいなのだが、妙に納得してしまう、そんな映画だった。