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on 2007.12.12, 00:00,
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diary.
知らない町の知らない場所で迷子になった。
仕方がないので、人に道を訊ねた。
一人目と二人目はまったく間違った道を、とても親切に教えてくれた。
三人目はガードマンのおじさんだったが、ぶっきらぼうに正しい道を教えてくれた。
間違った道を教えてくれた二人は、別に教えてくれなくてもよかったのに、わざわざ間違った道を教えてくれた。知らないことを「知らない」と答えるのは、非常に勇気がいる行為なのかもしれない。
僕はすぐに彼らがどうやら本当はそんな場所を知らないことを感じたが、とくに何も言わなかった。二人目の人がまったく逆の方向だと教えてくれたので、ガードマンが正しい道を教えてくれたときにまた来た道を戻らなくてはならず、気まずいので彼女の前を通り過ぎるときに顔を覆い隠したぐらいだ。
親切にも間違った道を教えてくれた人たちに共通していたことは、どちらも必死だったことだ。
おそらくもう二度と会うこともない赤の他人にそんなに必死になるぐらいだから、自分が普段から接している人たちに対してはものすごく必死に色々と世話を焼いているのだろう。
人生において必死にならざるを得ないときはあるにはあるが、その「必死さ」が物事の真実を覆い隠してしまうことのほうが多い。
自分が必死に努力しているからといって、何もそれが正しいとは限らないのだ。
悪徳政治家は必死に悪事を隠そうとするし、罪人も必死に罪を隠そうとする。
つまり「必死さ」の価値なんてその程度のものだ。
僕は必死な自分を軽蔑するように自分自身を特訓している。
そもそも必死にならざるを得ない状況に自分を置くこと自体が間違っている。それは事前の準備不足が原因だったり、自分には全くそぐわないことだったりを「必死さ」でそれこそ必死に覆い隠そうとしている。
急に必死になっても、それはすでに多くの場合は手遅れだ。そういう状況に陥ったら、「必死さ」を必要としない状況まで立ち返ることが必要なのだろう。
来た道を潔く引き返すことが、多くの場合前進することに繋がる。
世の中は、必死さをとかく美化し強調しようとする。
必死に短所を矯正するよりは、自分の長所を生かせるところに身を置いたほうが賢明だし、それに本当の意味で努力をしている人は、とても軽やかで楽しそうだ。「必死さ」の面影すらない。
完璧な人間になりたいなんて露ほども思わないが、軽やかな人でありたいとは常に思っている。
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on 2007.11.14, 00:00,
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diary.
結局、ブラジルに行くことにした。
遠くへ行かねばと思ったから、行くことにした。
伊豆の温泉に満足するにはまだ早い。
やはり、自分自身を危険に晒して、楽しみたいという気持ちがまだある。
もちろん、むやみにやたらに危険を渇望しているわけではないが、ものは試しにブラジルに行くことにした。
年を取れば取るほど、きっと危険を危険と感じるようになる。
危険をひとつの人生の享受として感じられる今だからこそ、それを赤裸々に体験できる国へ行ってみたいと思った。
来世は温泉好きの人間になりたいとは思うが、どうやら今回はなさそうだ。
きっと最期の最期まで、どこか見知らぬ国への渇望を絶やすことはないと思う。
今回はきっとそれほど多くの写真を撮らないかもしれない。
しかし、よりよい写真を撮りたいとは思う。
そして、いつかこう思いたい。
「多くの旅を経験して初めて、自分がいるこの場所が一番だと思うように至った」と。
それまではセネガルやコロンビアあたりで、のらりくらりと旅をしているのかもしれない。
間違いを犯すのは仕方がないが、後悔するのは御免だ。
それなりの結果を今回の旅で得ることができればと思っている。
真夏の国へ。
まずは足腰を鍛えて、逃げ足だけは早く保ちたい。
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on 2007.10.19, 00:00,
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以前、チベットの高僧の講演を聴きに行ったとき、「人生の最大の敵は期待だ」と言っていたことを最近ふと思い出す。
なんだかとことん疲れている。
よくは分からないが疲れというのも所詮は気分の問題だ。
肉体的な疲れは精神的な疲れに比例している。
(逆もまた然りかもしれないが)
身体的に疲れていても、精神的に疲れなんて感じないことはままある。
多くのことについて考え過ぎではあるし、ひとりの人間が責任を取れる範囲なんて決まっている。でも、なるべく自己で完結させたいと願うのは性というやつだろう。
言い訳や後悔なんてしている暇があるくらいならば、新たな過ちを犯したほうがマシだと思う。
自分自身や周りの人々に多くのことを期待してしまう。
もっとより良くありたいと願ってしまう。
多くは自分の至らなさが原因なのだが、生きれば生きるほど現実に幻滅する機会が増えるとは20代の頃は思いも寄らなかった。
あと10年もすれば然り顔で「人生とはかくあるべきである」なんていっているうざい親父になっていたら、イヤだなと心底思う。
10代の頃の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか?
きっと信じられないだろう、この緊張感と危機感の欠如に。
「僕は二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい」と言ったのはポール・ニザンだ。
あの頃の緊張感を持ったまま年を取るなんて不可能だし、そんな生きにくい人生なんて御免だ。
時間をずいぶん浪費しているなと強く自覚している。
かといって、自分がどうありたいという強い気持ちを失ってしまった感もある。
きっと他人を許すたびに、自分も許してきたのだと思う。
そうして、危機感と緊張感も手放してきたのだろう。
せめて創造するだけの危機感を持って30代を生き抜きたい。
模倣や妥協の連続のサイクルだけは避けたいと思う。
二十歳の頃に戻りたいとは露ほど思わないが、あの頃の危機感を取り戻せればとは思う。
何かをやり遂げるには他人を許して、自分を許さない強さがきっと必要なのだろう。
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on 2007.9.25, 00:00,
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距離が心地よい。
過去が美しく思えるのは、現在と距離があるからなのだろう。
新幹線に乗って、函館まで行ってみた。
東京からの遠さに安心する。
空気の濃度すらも、人口密度に比例して、いくぶん薄い気がする。
そこで生活できるとは思わないが、大きな土地に小さな人間が住んでいることを実感できる。東京にいると、人間があまりに野放図にのさばり、我が物顔に生きているので、生かされている実感など湧かない。
誰もが自分の足でしっかり立って生きているのだと思っているが、同じ日本のなかでも北端に行くと、東京と同じというわけにはいかない。常識なんて、所詮は人々の頭の中でしか存在していない。違う土地に行けば、違う価値観があり、違う常識がある。そんな当たり前のことを北の大地で思い知る。
ふとこのまま住み着いたらどうなるかと、頭のなかであれこれシミュレーションをしてみる。あまり現実的ではないかもしれないが、きっとなんとかうまくやっていける気もする。
チェスの駒のように、自分の人生を扱って、ことを進めていきたい。
同じところへ居過ぎると、執着が生まれる。
愛着ならまだいいが、執着だと厄介だ。
物事と人への執着は、成長を阻害する。
だから、なんとはなしに遠くへ行ってみたくなるのかもしれない。
今の自分を切り取るために。
切り取られた自分が、いかに見知らぬ土地で順応していくか興味がある。
新しさを求める旅には飽きたのかもしれない。
極論すれば、新しいものなど世界にはもう存在しないのかもしれない。
語られた人生とすでに描かれたイメージを再度、自分なりに焼き直す作業に没頭するしかないのだろうか?
新しさと深さは比例している。
深く掘れば掘るほど、新しいものが見つかるはずだ。
まだまだ掘り足りない。
もっと深く掘り、誰も見たことがないようないイメージを描ければと思っている。
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on 2007.9.4, 00:00,
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時々、自分が心底馬鹿ではないかと思うことがある。
たとえば、今日は20回以上も作ったことのある麻婆豆腐のレシピが分からなかった。
ファイルされたレシピを見て、「おっ、砂糖も入れるのかと」と今更ながらに驚く始末だ。
そんなアンポンタンな脳みそでも、10年以上も前のどうでもいい世間話のディテールまで覚えていることもある。
脳の仕組みは複雑だ。
あわよくば効率よく脳を使いたいが、そうもいかない。
肝心なときに肝心なことを忘れていることもある。
人間は脳を30%しか使っていないということだが、人間の精神力が残りの70%を使いこなせないので、そういうことになっているのかもしれない。
簡単な料理のレシピをいつまで経っても覚えられない人間が、今の二倍以上の処理力で物事を処理することに耐えうるだろうか?
このあいだ「フェルマーの最終定理」という本を読んだが、肝心なのは脳のスペックではなく、それを支えるだけの精神力だと思った。
人間何をやっても駄目なときと、たいした努力をしなくてもうまくいくことがある。
人生なんてその繰り返しだと言っても過言ではない。
しょせん、人間の脳は30%程度しか使われていないのだ。
能力にそれほど差は出るはずはない。日々の選択によって、少ない才能を伸ばすことも可能だと思う。
レシピを覚えられない人間は、レシピを自分で作ればいい。
いつもの麻婆豆腐に、いつもは入れないニラを入れながら、そんなことを思った。